ラッセンブリ広尾の歴史

ラッセンブリ広尾の歴史

ラッセンブリ広尾は、石丸 助三郎氏の邸宅として1922年(大正11年)に建てられました。日本を代表する海運会社 日本郵船株式会社のロンドン支店長であった石丸 助三郎氏は、西欧文化に造詣が深く、帰国後にヨーロッパ風の建築で、快適な家を建立したいと考え、大正・昭和を代表する建築家である西村 伊作氏に邸宅の設計を依頼しました。

1922年当時の邸宅
初代 石丸 和義氏と幼少期の二代目石丸 助三郎氏

西村 伊作氏は、著名な建築家として活躍する一方、日本の教育者であり、歌人 与謝野 晶子等と共に東京・駿河台に「文化学院」を設立した創立者としても知られていますが、日本人の生活近代化の重要性を説く、生活文化研究家としての視点も備えており、石丸 助三郎氏の希望を汲み取りながら、家族が集える部屋を軸に個室を多用した住宅建築をモダンに体現したのが、この邸宅といえます。

また、文化・芸術をこよなく愛した石丸 助三郎氏の想いが石丸家の中で代々継承され、この邸宅が歴史に名を残す著名な文化人たちが交流を深める舞台であったことが伺い知れます。

そのきっかけは、1963年に自伝的長編として「人間の運命」を著し、1964年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した小説家の芹沢 光治良氏は、書生時代にこの邸宅で過ごしていたことに始まります。そして、石丸家と芹沢光治良氏の交流は、芹沢氏と親しかった川端 康成氏、有島 武郎氏、久保田 万太郎氏、林 芙美子氏といった錚々たる文豪家達を交えてその輪を広げ、邸宅が文化・芸術交流の重要なサロンとしての役割も担うようになっていったのです。

初代 石丸 和義氏を囲んでの家族写真 左から茂登氏・親族・和義氏・助三郎氏・都枝氏

石丸家の後には、日本に駐在の外交官や貿易商の方が住まわれる等、多くの文化人・著名人に親しまれ、愛され続けた場所となりました。

一方、邸宅には、神秘的な逸話が伝説のように語り継がれています。
邸宅が建てられた翌年の1923年9月1日午前11時58分32秒に、マグニチュード7.9の大正関東地震が起こり、東京を中心に甚大な被害がもたらされましたが(後に、地震災害として「関東大震災」と呼ばれる)、大きな被害はなく難を逃れました。

また、邸宅の敷地内には、港区の保護樹木に指定されている樹齢300年のケヤキの樹が3本ありますが、第二次世界大戦の戦時下における1945年3月10日の東京大空襲では、このケヤキの樹が火の粉から邸宅を守ったという逸話が残っており、広尾の地の神聖なシンボルと言われる由縁となっています。

このように、大正・昭和・平成という92年に渡る激動の時代を静かに見つめてきた本物の邸宅は、今、この時も揺らぐことなく、“永遠の幸せを紡ぎながら、永遠の未来に向かう時”を、ラッセンブリ広尾にお越しくださる皆さまと共に刻んでいます。

gaikan